yullco1と人文書 vol.1

 2ヶ月放置していました。このまま終わってたまるか~。

 とりあえず人文書についてのメモがいくつかあったので文章にまとめた。

 

 文系学生だったので人文書にバイト代の多くをつぎ込んで読んでいた。今でもよく読む。とはいえ何を(どこまでを)人文書(人文科学)と指すのかと聞かれるとぼくもよくわかっていない。

 とりあえず紀伊國屋書店主催の「紀伊國屋じんぶん大賞」のランキングを何年か分ざっとと眺めると一般的なイメージはつかめそうだ。ジャンルとしては「社会問題・ルポ」「歴史」「思想哲学」「政治」「宗教」「芸術(文学・アート・映像)」がよく見られる。

www.kinokuniya.co.jp

 

 そもそもすっきりジャンル分けできないものも多い。そういった領域横断感も人文書の大きな魅力だ。

 

 例えば2017年度7位の「ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥」(著:アンドリュー・ロウラー 訳:熊井ひろ美 インターシフト 2016.11)はおすすめだ。

 

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥

 

 

 ニワトリに寄り添いながら、彼らとともに歩んできた人類史の初期から現在に至るまでを案内してくれる。

 

ニワトリの医療への利用と「朝(太陽)を告げる」存在としての宗教性。その宗教の儀式を元ネタとして始まり世界的に広まった闘鶏とそれを楽しむ階級層。

食用家畜となってからは、女性や黒人の労働や社会的立場に大きく関わってきた。

過小評価されている知能とぞんざいに扱われるニワトリへの倫理。

NASAのプロジェクトへの採用。

 

 こういう独特の視点とダイナミックさのある本はこちらをワクワクさせてくれる。読むとニワトリへ敬意を払わずにはいられなくなる1冊だ。

 

 人文書のジャンルの話に戻ると、ぼくは「思想哲学」の本を好んで読む/読んでいた。絞っていうならば、いわゆる「ニューアカデミズム」以降の「現代思想」――国内で「批評」として位置づけられる書き手の本だ。そこで語られる欧米の思想家たちに、とりあえず邦訳の文庫でチャレンジするのを繰り返す学生時代だったし、結局卒論‐修論もそういう文脈で書いた。

 オタクだったため、当然ながら(?)東浩紀を中心とするゼロ年代批評もたくさん読んでいた。ぼくの本棚には書き込みと付箋がびっしりの『存在論的、郵便的』が置いてある(近年の『ゲンロン』シリーズは読んでいない、まとめて読もうと思っているうちにどんどん刊行されてしまった)。インターネット(ぼくの観測範囲)では妙な愛憎や揶揄と共に語られることも多い東だが、ぼく自身は彼がルソーやデリダを解釈する際に人間のどうしようもなさを前提にしてくれる点に素朴に惹かれる。

 

公共の言葉を発することこそが政治であり哲学なのだというハーバーマス、あるいはアーレント的な思想というのは、僕にはどうしても馴染めません。そして、そんなハーバーマスたちと論争するときのデリダのモヤモヤした感じは、「まったくね、公共、大事ですよね、僕もそうできたらいいんですけどね、でもできないんですよね、本当にすみません」という感じで、とても共感できる(笑)。(『現代思想 総特集デリダ』所収 インタビュー「デッド・レターとしての哲学」での東の発言 p126 青土社  2014年2月臨時増刊号)

 

 人間は割とどうしようもないけれど、どうしようもないなりに作れる公共性がないか模索する。彼の師にあたる高橋哲哉のカチコチなデリダ解釈とは異なっている。これ以上書き始めるとキリがないのでやめておこう。

 

 人間を愚かさやいい加減さ、非常識さから考えるジル・ドゥルーズも好きだ。

 セクシーな文体とクネクネした展開でスリリングに世界を描き出す。正直言って奇書みたいなものだが、その中で比較的わかりやすく、ぼく好みの話というと、彼の思考論が挙げられる。

 ドゥルーズは自発意思とか能動性とかまじめさが人間に備わっていることを疑い、遠ざける。そんな彼は人に思考をもたらすきっかけ(「始原的であるもの」)を「不法侵入」、「暴力」とし、考えることを「嫌知」とまで呼んでいる。

 

人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというより、むしろ何かショックを受けて思考するということ、これは「すべての人」のよく知るところである。(『差異と反復 上』 p354 著:ジル・ドゥルーズ 訳:財津理 河出文庫 2007.10)

 

思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知[哲学]を仮定せず、一切は嫌知から出発するのだ。思考によって思考される内容の相対的な必然性を安定させるために、思考をあてにするなどということはやめよう。反対に、思考するという行為の、また思考するという受苦[受動]の絶対的な必然性を引き起こし、しっかりと立たせるために、思考するという行為を強制するものとの出会いの偶然性をあてにしよう。(同上 p372)

 

 思考は「嫌知」から出発する。ドゥルーズは積極的に夢中になれるものを見つけようとする態度(「愛知」)ではなく、ある日まったく予期せぬところから「暴力」的に「不法侵入」してくる何かに突き動かされてしまう姿に価値を見る。

 ぼんやりしているところにガツンとやってくるものに身をまかせてみること。

例えば『暇と退屈の倫理学』(どうやっても人につきまとう退屈について思索した良書)、『ドゥルーズの哲学原理』などを著した國分功一郎は先のフレーズを引用したうえで、人が自分を楽しませる何かに上手に出会うために必要な態度について「待ち構える(être aux aguets)」というドゥルーズの言葉を借りて説明している。

 

 ぼくの人生を振り返ってみても、自分を何かに駆り立てるきっかけなんてたいてい偶然やってきたものでしかない。1から何か新しいことをがんばろうと始めてみて楽しさがついてきたことはあまりない。偶然にやってきて自分の引き金を引いてくれる何かを「待ち構え」てイイ感じに出会うこと。ひどくパッシヴでどうしようもない人間だがドゥルーズを読んでいるとそういう自分のいい加減さやちんたら感もまあアリなのではという気分になってくる。

 思想哲学のおもしろさは世界の在り方をどう見てどう切り取ってどう見せるかにあると思う。ぼくがそれを読んで何か実生活にめちゃくちゃ役に立つわけでもなく、啓発されるわけでもない。けれど、無自覚にぼんやりと生きているとまったく考えもしない世界の有り様の裏側や狂気や魅力を突き付けられるとどきどきする。

 労働に追われる日々だけれどそういうエモさを忘れずにいたい。