yullco1と人文書 vol.1

 2ヶ月放置していました。このまま終わってたまるか~。

 とりあえず人文書についてのメモがいくつかあったので文章にまとめた。

 

 文系学生だったので人文書にバイト代の多くをつぎ込んで読んでいた。今でもよく読む。とはいえ何を(どこまでを)人文書(人文科学)と指すのかと聞かれるとぼくもよくわかっていない。

 とりあえず紀伊國屋書店主催の「紀伊國屋じんぶん大賞」のランキングを何年か分ざっとと眺めると一般的なイメージはつかめそうだ。ジャンルとしては「社会問題・ルポ」「歴史」「思想哲学」「政治」「宗教」「芸術(文学・アート・映像)」がよく見られる。

www.kinokuniya.co.jp

 

 そもそもすっきりジャンル分けできないものも多い。そういった領域横断感も人文書の大きな魅力だ。

 

 例えば2017年度7位の「ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥」(著:アンドリュー・ロウラー 訳:熊井ひろ美 インターシフト 2016.11)はおすすめだ。

 

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥

 

 

 ニワトリに寄り添いながら、彼らとともに歩んできた人類史の初期から現在に至るまでを案内してくれる。

 

ニワトリの医療への利用と「朝(太陽)を告げる」存在としての宗教性。その宗教の儀式を元ネタとして始まり世界的に広まった闘鶏とそれを楽しむ階級層。

食用家畜となってからは、女性や黒人の労働や社会的立場に大きく関わってきた。

過小評価されている知能とぞんざいに扱われるニワトリへの倫理。

NASAのプロジェクトへの採用。

 

 こういう独特の視点とダイナミックさのある本はこちらをワクワクさせてくれる。読むとニワトリへ敬意を払わずにはいられなくなる1冊だ。

 

 人文書のジャンルの話に戻ると、ぼくは「思想哲学」の本を好んで読む/読んでいた。絞っていうならば、いわゆる「ニューアカデミズム」以降の「現代思想」――国内で「批評」として位置づけられる書き手の本だ。そこで語られる欧米の思想家たちに、とりあえず邦訳の文庫でチャレンジするのを繰り返す学生時代だったし、結局卒論‐修論もそういう文脈で書いた。

 オタクだったため、当然ながら(?)東浩紀を中心とするゼロ年代批評もたくさん読んでいた。ぼくの本棚には書き込みと付箋がびっしりの『存在論的、郵便的』が置いてある(近年の『ゲンロン』シリーズは読んでいない、まとめて読もうと思っているうちにどんどん刊行されてしまった)。インターネット(ぼくの観測範囲)では妙な愛憎や揶揄と共に語られることも多い東だが、ぼく自身は彼がルソーやデリダを解釈する際に人間のどうしようもなさを前提にしてくれる点に素朴に惹かれる。

 

公共の言葉を発することこそが政治であり哲学なのだというハーバーマス、あるいはアーレント的な思想というのは、僕にはどうしても馴染めません。そして、そんなハーバーマスたちと論争するときのデリダのモヤモヤした感じは、「まったくね、公共、大事ですよね、僕もそうできたらいいんですけどね、でもできないんですよね、本当にすみません」という感じで、とても共感できる(笑)。(『現代思想 総特集デリダ』所収 インタビュー「デッド・レターとしての哲学」での東の発言 p126 青土社  2014年2月臨時増刊号)

 

 人間は割とどうしようもないけれど、どうしようもないなりに作れる公共性がないか模索する。彼の師にあたる高橋哲哉のカチコチなデリダ解釈とは異なっている。これ以上書き始めるとキリがないのでやめておこう。

 

 人間を愚かさやいい加減さ、非常識さから考えるジル・ドゥルーズも好きだ。

 セクシーな文体とクネクネした展開でスリリングに世界を描き出す。正直言って奇書みたいなものだが、その中で比較的わかりやすく、ぼく好みの話というと、彼の思考論が挙げられる。

 ドゥルーズは自発意思とか能動性とかまじめさが人間に備わっていることを疑い、遠ざける。そんな彼は人に思考をもたらすきっかけ(「始原的であるもの」)を「不法侵入」、「暴力」とし、考えることを「嫌知」とまで呼んでいる。

 

人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというより、むしろ何かショックを受けて思考するということ、これは「すべての人」のよく知るところである。(『差異と反復 上』 p354 著:ジル・ドゥルーズ 訳:財津理 河出文庫 2007.10)

 

思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、それはまた敵であって、何ものも愛知[哲学]を仮定せず、一切は嫌知から出発するのだ。思考によって思考される内容の相対的な必然性を安定させるために、思考をあてにするなどということはやめよう。反対に、思考するという行為の、また思考するという受苦[受動]の絶対的な必然性を引き起こし、しっかりと立たせるために、思考するという行為を強制するものとの出会いの偶然性をあてにしよう。(同上 p372)

 

 思考は「嫌知」から出発する。ドゥルーズは積極的に夢中になれるものを見つけようとする態度(「愛知」)ではなく、ある日まったく予期せぬところから「暴力」的に「不法侵入」してくる何かに突き動かされてしまう姿に価値を見る。

 ぼんやりしているところにガツンとやってくるものに身をまかせてみること。

例えば『暇と退屈の倫理学』(どうやっても人につきまとう退屈について思索した良書)、『ドゥルーズの哲学原理』などを著した國分功一郎は先のフレーズを引用したうえで、人が自分を楽しませる何かに上手に出会うために必要な態度について「待ち構える(être aux aguets)」というドゥルーズの言葉を借りて説明している。

 

 ぼくの人生を振り返ってみても、自分を何かに駆り立てるきっかけなんてたいてい偶然やってきたものでしかない。1から何か新しいことをがんばろうと始めてみて楽しさがついてきたことはあまりない。偶然にやってきて自分の引き金を引いてくれる何かを「待ち構え」てイイ感じに出会うこと。ひどくパッシヴでどうしようもない人間だがドゥルーズを読んでいるとそういう自分のいい加減さやちんたら感もまあアリなのではという気分になってくる。

 思想哲学のおもしろさは世界の在り方をどう見てどう切り取ってどう見せるかにあると思う。ぼくがそれを読んで何か実生活にめちゃくちゃ役に立つわけでもなく、啓発されるわけでもない。けれど、無自覚にぼんやりと生きているとまったく考えもしない世界の有り様の裏側や狂気や魅力を突き付けられるとどきどきする。

 労働に追われる日々だけれどそういうエモさを忘れずにいたい。

遅の筆

 前回からだいぶ間が空いてしまった。2週間に1回くらいでがんばりたいと思っていたけどなかなかむずかしい。

 

 文章にしておきたいことならたくさんあったはず……。

 

 SFの話とか(樋口恭介『構造素子』は本当にサイコーだった。伊藤計劃長谷敏司の文脈で感想をまとめたい)。

 同人ゲーの話とか(定期的にDL siteで散財すると健康に良い)。

 桜井のりおの話とか(ゲラゲラ笑える一方で女児服へのアツいこだわりが感じられるオンリーワンの作家だ)。

 久しぶりに太宰治を読み返したらすごく良かった話とか(『畜犬談』、書き出しがマジで天才なんすよ……)。

 おすすめ人文ブック、おすすめ美少女ノベルゲの続きも書けていない。

 

 いくらでもネタはある。書いてないけど。

 社会人しながらもの書きの仕事をしている先輩が何人もいるし、時間がないというのも言い訳っぽい。

 

 遅筆で文章が下手だと自分で思う。

 いつもおっかなびっくり書いている。ためらいながら文を吐き出す。急に息切れして立ち止まる。どうにか気を入れてまた手を動かす。最後にもぞもぞと推敲する。結果たいしてうまくもない文章が完成する。時間をかけたぶんいいものができるというわけでもない。

 短い時間で何千字も書ける人はすごいと思う。早いだけでなくそれが良いものだったりするとつくづく自分の書きっぷりのひどさを痛感してしまう。仕事上、いろいろな人のいろいろな文章を読んで添削する機会が多いのだが「普段何も書かないけどどうにか一晩で終わらしたわハハハ」って感じの人の文章がたいへんエモかったりするとぼ、ぼくは……となる。

 自分の言葉のうまくなさは常々感じているけれど、書くこと自体は好きだ。オエッオエッと苦しみながらどうにか形にした自分の文章を読み返すと決して良いとは思えないがこれはこれで愛おしいと思えるときがある(うわマジでゴミだなってときもあるけど)。

 

 この前も年度末で異動してしまうサイコーの上司に手紙を書いた。

 好きなエッチ漫画家に「ここがエッチで萌え萌えで良さなんですよね……」とひたすら綴ったファンレター/怪文書を送り付けることもある。

 もちろん手書きなわけなのだけれど、yullco1は字もヘタクソである(職業的に致命傷)

 頭を抱えて下書きを作り、ヘタクソなりにどうにか整えた文字を便箋に連ねていく。

 対象の良さについてひたすら言葉を尽くす作業。

 上司にしてもエッチ漫画家にしても、自分の時間を何時間でも割いてもいいと思える誰かがいることは尊いものだと思う。

 いい話っぽくしようとしているけれど、大して相手に響かなかったり、最悪読まずに捨てられたりしている可能性だって充分ある(エッチ漫画家さんについてはyullco1のツイッターが認識されているっぽいので無事読まれているようだ。エッチ漫画家さんはサイコー)。

 

私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして私は書き続けるであろう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。

                    (坂口安吾 『デカダン文学論』より)

 

 すごく1人よがりな作業だと思うけれど、それはそれでいいかなと思う。

 本当に良いものを目の前にして語彙力がジュッと消え去るときもあるけれど(オタクなので)、一方でそれを何とか言葉としてつかまえたい欲がある。自分の好きなものに向き合ってその何が好きなのかをどうにか言葉にしようとする時間を大切にしたい。このブログもそのための場としてほそぼそと続けていきたい。

 ぼくはぼくのためにオエーッとなりながら好きなものについての文章を書いていたいのだ(マゾいな?)。

yullco1と美少女ノベルゲ vol.1

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                              (『ランス03』より)

 yullco1と美少女ノベルゲ

 美少女ノベルゲームが好きだ。

 熱狂的なプレイヤーがたくさんいた全盛期――2000年代前半(その頃は「ボボボーボ・ボーボボ」でげらげら笑ってた)から遠く離れて、斜陽というか周縁の位置になり始めた頃にぼくは美少女ノベルゲにハマり始めた。

 高校時代の文学少年っぷりは先の記事で書いたが、一方でオタクカルチャーにもそれなりに親しみがあった。ライトノベルもそれなりに読んでいたし、幼なじみ(現在引きこもりらしい)の影響でガンダムも好きだった。受験期のボロボロメンタルを支えてくれたのはラブプラスだ。(寧々さんのおかげでストレス性皮膚炎が治った)。

 この時点でただのオタクでは?って感じだが、あくまで高校生のぼくが1番好んでいたのは近代文学だった。

 そんな感じで無事受験を終え、文系大学生になる。

 ようやくスニーカーの靴紐を左右別の色にするのはおかしいと気づいたが、今度は細パンツを履きブーツインし始める(V系か?)。靴は変わってもこじらせ度は変わらなかった。

 さて、大学でも文学少年っぷりを発揮できればよかったのだが、授業やゼミの義務感に追われて文学に触れるのが嫌になってきて少しずつそこから距離を取り始めた。好きでもない作家のマイナー短編とか読みたくないよ~という振り返るとナメてんのかコイツ、って感じのクソアホムーヴだ。

 つまるところ、自分の実存と文学に触れる体験とが解離してしまったのだ。大げさな言い方だけれど、まあ子どもみたいなワガママだ。

 結果ただの萌え萌え人文系オタクが生まれた。このタイミングでゼロ年代批評を読み始めたのもアレだった(これについては別の機会に)。

 その頃から美少女ノベルゲームに魅せられていく。

 他のジャンルにはない奇妙なエモさ。欲望、狂気、汚辱、喪失、寂寥、後悔、祝福、崇高……。いろいろなものがごちゃまぜになってそれらすべてが肯定されている。どろどろときらきらの混淆。

 選択と分岐も独特の魅力だ。「あのときこうしていれば別の生き方をしていたかもしれない」という素朴な感覚はとても共感できるものだった。それを取り上げ前景化したメタいノベルゲはぼくの実存に揺るがすものばかりだ。

 そんな美少女ノベルゲームが好きだ。斜陽だろうと滝から落ちようと好きだ。好きなものは好き。

 そんな感じで今回もいくつか作品を紹介しよう。

※可能な限り配慮したけれどネタバレ箇所もあります。致命的なものは避けているはずです。

 

パルフェ ショコラ secondbrew』

お前の周りの世界は…お前が考えるよりも…ちょっとだけ優しいんだよ

 

 初めて買った作品だ。「エロゲ 初心者」で検索するとよくオススメされてる。 

 これが美少女ノベルゲ入門にいいのかはまあよくわからない。

 けれど、今振り返ると丸戸史明の特徴が充分に出ている作品だと思う。

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 どのジャンルにも出てきそうなありがちなヒロイン像。と見せかけてどこかズレためんどくささを抱えていて、それがキャラクターの言動の確かな芯になっている。丸戸の生み出すキャラクターの魅力はこういうところだとyullco1は勝手に思っている。

 花鳥玲愛・杉浦小春・澤村・スペンサー・英梨々と丸戸ヒロインに人生を3回破壊されているyullco1が言うのだからそれなりに説得力あると思う。

 

君が望む永遠

 よいしょ よいしょ よいしょ

 ほんとうのたからもの を みつけたハルは しんじています

 いつかまた みんなで なかよくおひるねできることを

 ずっとしんじています

 

パルフェ」の次に遊んだ作品(たぶん)。

 yullco1の考える美少女ノベルゲらしさがつまった良い作品。

 ありふれたカップル。少女はある日交通事故に遭い昏睡状態に。それから3年の月日が経って少女は突如昏睡から回復する。世界はすっかり変わってしまい、かつて少年だった人は成長し、そのとなりには別の女性が……。かつて愛した遥と悲しみを癒してくれた水月のどちらを選ぶのか……という三角関係ものが本筋。

 yullco1は遥派だったのでとりあえず遥エンドをやり、そこではほ~んってだけだったのだが、後回しにした水月エンドでビチャビチャにされてしまった(Otaku tear)。美少女ノベルゲで最も好きなエンディングの1つだ。

 水月エンドでは当然遥は主人公と結ばれない。しかし、水月エンドではその選ばれなかったヒロインである遥の思いをとても美しい形で救っている。

 かつてあった幸せと離別の痛みと共に肯定される今と未来への祈り。

 ほんとうに美しい。ビチョビチョに泣いた。

 

 もちろん水月と遥、どちらも選ばないという選択もある。サブヒロインも負けないくらい濃い魅力がある。水月に盛大に引導を渡す大空寺あゆはカッコいいし、天川蛍ルートは別の泣きゲーと化していた。

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 マナマナは特別印象的だ。昔のハードディスクを漁ったらこのスクショだけ残ってた(なんで?)。なんか異常っぽい雰囲気が伝わるといい。

 BGMもたいへん出来が良いのでぜひ(サントラ所持)。「誰にでもある明日」が流れる遥のリハビリシーンはビシャビシャに泣く。

 

Fate/hollow ataraxia

 世界を回し続けろ。
 あの黄金の日々を。
 オレには決して手に入らなかった、本来与えられるべきだったモノを―――

 

 yullco1を決定的に月厨とした奈須きのこ最高傑作。

 サーヴァントと過ごすありえなかったはずの穏やかな日常。繰り返す4日間。パラレルに展開する食い違いだらけの夜の聖杯戦争。stay/nightとは方向性がまた方向性が違った魅力があり、こっちの方が刺さるって人も多いはずだ。yullco1がそう。

 覆らない後悔や失敗を抱えて亡くなった英霊。サーヴァントとして再び世界に召喚された彼ら/彼女らがそれに対して自分なりの答えを出そうと模索する姿のひたむきさがFateの良いところだと思う。

 hollowにおいて平穏な日常を過ごすサーヴァントたちは、その日々を一瞬の幻だと理解した上で精一杯はしゃぎ、それをかけがえのないものとして享受しようとする。その間隙に生前抱えていた様々なものが見えてくるのが愛おしい。

 繰り返す4日間の輝きを本物/偽物という対比を設定しながら攪乱させていくのも奈須らしさが出ている。

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 hollowのセイバーは本当に尊い(vitaとPCのスクショが混じっててごめん)。Fate関連作品は山ほどあるが彼女を1番魅力的に描いているのはhollowだと思う。

 

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 終盤のイリヤとの会話もとても儚くきれいだ。

 

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 繰り返す日々の終幕を看取ってくれる自己評価めちゃ低ボロボロ聖女、カレン・オルテンシアさんは型月で1番好きなキャラクターです。

 

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 とにかく最後はハチャメチャに泣く。

 余談。なんかいろいろと悪名高いFGOだけど、フレーバーテキストだけは手放しで褒めたい。特にhollow関係。

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『Forest』

俺たちの「外」に世界がある。俺たちは誰かの夢だ。その夢を見ていやがるクソッタレは――そうさ、やっぱり俺たちとおんなじさ! 「語り手」と「聞き手」がいる。「読む」「踊る」「語り継ぐ」物もいる。お気に召したかい、この夢は? どっかで見ている誰かさんよ?

 

その誰かさんが、何をしているか、あなた知ってる? すぐそばにティッシュの箱を置いて――

   

 情緒不安定なテキストと妙ちきりんな演出とゲームであることへの自己言及性が特徴の怪作。

 物語の「外」になんらかの意志(要は画面の前のプレイヤーだ)が存在しており、彼らの満足のために、セックスさせられていることを自覚するキャラクター。

 背景に実際の新宿の風景をコラージュして生み出された異界の森。

 テキストとまったく別の内容のボイスを流す情報の二重化。

 仕掛けと演出にとにかくドキドキさせられる。

 めちゃくちゃ出来が良いBGMと大石竜子さんの18禁ゲーらしからぬかわいらしいイラストもこの作品の神秘的な雰囲気を高めている。


Forest - Bagpiper

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 映画にもアニメにも小説にも還元できない奇妙で特異な美がここにはある。

 

るいは智を呼ぶ

あなたは沢山の私と出会いました。では、呪いの解けない私は、あなたが選ばなかった私は、そんなに不幸せに見えましたか?

 

語り合えなかった言葉を夢に見る。もっと違う、幸せでちっぽけな出会いを幻想する。あり得たかもしれない過去の全てと、あり得なかった未来の全てを一瞬に集める。

 

 本当の性別を知られてはいけないという呪いを抱えているために、女装して生きることを強いられている少年和久津智。ささいなきっかけから様々な呪いを抱える自分とよく似た境遇の少女たちと出会い〈同盟〉を結成、トラブル解決や呪いの解除に奔走する。

 

 苦しみや痛みのない世界をどれだけ探そうとも、あのときああしていれば、こうしていれば、という後悔は消えない。もっと幸せになれたかもしれない、と夢想してしまう。

 じゃあこの世界でどう生きていけばいいんだろう?

 そんな素朴な問いにとても真摯に向き合った作品。ファンディスクの終盤でデロンデロンに泣く。

 めちゃくちゃ好きな作品なのですが、根幹の良さを説明しようとするとネタバレに触れないといけないのでむずがゆい。この先は君の目で確かめてくれ!(ヤケクソ)。ファンディスクが実質続編というかそこまでやらないと完結しないのでセットでやってね。

 代わりに性癖の話をしよう。yullco1は智くんの存在によって女装ものの良さに目覚めた。

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 智くんは女装主人公にありがちなオーバースペックキャラではなく(体は男だから女の子よりは足速いってぐらい)、基本的には弱い存在として描写されてるのが良い……萌え……。

 

君と彼女と彼女の恋

君が、本当に彼女たちを想うなら―――

君が正しい結末を迎えるなら―――

選択肢を選べるのは、一度きりだ。

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 どこから何に触れてもネタバレになりそうな作品だ。いろいろなスクショが拡散して有名なのでなんとなく知ってる人は多そうだけど。

 美少女ノベルゲの形式を徹底して突き詰めた結果、倫理と愛が出てきた、みたいな作品。あるエンドは美少女ノベルゲすべてのヒロインの祝福であると同時にプレイヤーへの呪縛になっているのが本当にうまいと思った。

 発売当初からかなり話題になっていた記憶がある。yullco1は予約をしたつもりが実際してなかったという大ちょんぼをキメたため秋葉原から大宮まで行ってようやく初回版を手に入れることができた。

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 初回版は手のひらサイズのキレイな箱に入ったUSBメモリーという珍しい形態だ。さらにはその箱も作品の演出の1つとなっていて、後から意味がわかったときにはゾクゾクした。

 こちらも説明うんぬんよりも実際に触れてほしい作品。

 

 

 

 今回はここまで。

 紹介しきれなかった作品がまだまだたくさんある。(最初にランスから引用しといてアリス作品何も紹介してねえ)

 まとめてやり過ぎて時間かかったので小分けでもう少しラフにやりたい。

 次は人文書の紹介かまったく関係ないことについて書きます。

yullco1と小説 vol.1

 yullco1は他人の選書リストとかベスト〇〇を見るのが好き。なぜならオタクだから……。

 せっかくなのでyullco1もおすすめコンテンツをまとめていきたいと思います。小説、人文書、美少女ノベルゲ、SFあたりで。

 どのジャンルも好きな作品一気に紹介するのは気力も時間もキツイので小出し小出しでだらだらとやっていきます。

 最初は小説について。

 

yullco1と文学

 高校生のころの話をしよう。

 D&Gのライトブルーを毎日おなかにつけたりスニーカーの靴紐を左右違う色にするのを最高にオシャレだと思っていたりしたころの話だ。

 学校になじむのに失敗しともだち0人状態になったぼくは上記のような奇行に走り、常に内向き内向きこじらせスパイラルな生活を送っていた。

 そんな生活の空白の時間を埋めてくれ、こじらせをさらに悪化させてくれたのが文学だった。

 もともと現代文は好きだった。教科担当も授業開始時に黒板が完璧にキレイになっていないとブチギレることを除けばとてもいい先生だった。ちょっとした授業の空き時間に小説のコピーを持ってきてくれて読ませてくれた。1学級40人いれば、そういうのが刺さる人間は数人はいるだろう。ぼくもそうだった。

 毎週末は市の図書館に行ってバカでかい文学全集を借りてくるのが習慣になった。ぼくの文学の蓄積の大半はこの高校時代に積み上げたものだ。大学に進学して萌え萌えノベルゲームオタクになるなんて微塵も感じさせない文学少年っぷりだ。

そんな高校時代に好きだった作品の話をするよ。ノスタルジーたっぷり。

 あっ順番は適当です。

 

武者小路実篤『友情』

自分は淋しさをやっとたえて来た。今後なお耐えなければならないのか、全く一人で。神よ助け給え。

 

野島さま、野島さまのことをかくのはいやですが、野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを讃美していらっしゃるのです。

 

 高校時代1番ハマっていたのが武者小路実篤だ。『こころ』と『友情』を比較したレポートを提出して褒められたのは嬉しかった。想い人に理想を勝手に押し付けた結果グチャグチャになってしまう童貞。高校時代のyullco1も似たようなものだった。計り知れない共感と慰撫。

 武者小路だと『愛と死』が当時クソ泣いたのでまた機会があれば紹介したい。

 

友情 (岩波文庫)

友情 (岩波文庫)

 

 

西尾維新クビシメロマンチスト

 

「生まれて」「すいません」

やっぱ芥川より太宰だよな、と零崎は笑った。武者小路が一番好きだ、とぼくは笑わなかった。

 

 

ぼくにとってここは価値のある場所じゃないんだ。世界が明日滅びても、ぼくが今日に滅しても、そんなことはどうだっていいし、むしろその方がいいんだよ。だからぼくを殺すことに意味なんてない。あの晩だってあのまま殺されても、別によかったんだ。

 

 読み終えた夜はもんもんとして眠れなかった。武者小路つながり? 西尾維新戯言シリーズの2作目。これで人生がメチャクチャになったオタクは多いのでは? いーちゃんの厭世的な語りとけれん味たっぷりの言葉遊びはyullco1のこじらせを大いに加速させた。

 高校時代の読書のメインは明治~昭和だったんだけど乙一とか桜庭一樹とか米澤穂信とかも大好きだった。これはこれで別の機会にお話したい。

 ちなみに西尾維新、他作品についても何度か読もうと試みたことがあるけれど何故か途中であ~ムリムリ! となってしまう(『少女不十分』は何とか読めた)。戯言は今でもたまに読み返すよ。

 

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

 

 

川端康成眠れる美女

娘が決して目をさまさないために、年寄りの客は老衰の劣等感に恥じることがなく、女についての妄想や追憶も限りなく自由にゆるされることなのだろう。目をさましている女によりも高く払って惜しまぬのもそのためなのだろうか。眠らせられた娘がどんな老人であったかいっさい知らぬのも老人の心安さなのだろう。老人の方でも娘の暮らしの事情や人柄などはなにもわからない。それらを感じる手がかりの、どんなものを着ているのかさえわからぬようになっている。老人どもにとってあとのわずらわしさがないという、そんななまやさしい理由だけではあるまい。深い闇の底のあやしい明りであろう。

 

 高校生の頃は性描写のある小説をあまり好まなかった。ムリってほどでもなかったけど。ただ村上春樹だけはだめだった。よく聞く名前だし読んでみるか!と手にとってもそういうシーンが出てくると完全拒否でウワーッ、セックスだ! となって閉じてしまった(大学生になると平気になったので一気に読んだ)。

 本題に戻ります。

 海のそばのひっそりとした宿。既に男性としての機能を失った老人。薬で眠らされた裸の娘と添い寝をするだけの秘密クラブ。

 この設定がよぉ、やべえでしょ……。

セックスしてない(できない)のになんでこんなに妖しくてエロエロしい話があるんだ……と感動した作品。

 

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

 

 

大江健三郎『死者の奢り』

死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向って凝縮しながら、しかし執拗に躰をなすりつけあっている。

 

 大学生が女の故と医学部地下室の死体保存施設でアルバイトをするお話。

 「躰」についてのネチっとした描写が印象的。死体から照射される生の徒労と閉塞感。うんうん、わかる~。

 死体性愛みたいな要素あり。

 

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

 

 

三島由紀夫金閣寺

私はまた、その屋根の頂きに、永い歳月を風雨にさらされてきた金銅の鳳凰を思った。この神秘的な金いろの鳥は、時もつくらず、羽ばたきもせず、自分が鳥であることを忘れてしまっているにちがいなかった。しかしそれが飛ばないようにみえるのはまちがいだ。ほかの鳥が空間を飛ぶのに、この金の鳳凰はかがやく翼をあげて、永遠に時間のなかを飛んでいるのだ。時間がその翼を打つ。翼を打って、後方に流れてゆく。飛んでいるためには、鳳凰はただ不動の姿で、眼を怒らせ、翼を高くかかげ、尾羽根をひるがえし、いかめしい金いろの双の脚を、しっかと踏んばっていればよかったのだ。

 

どんな事柄も、終末の側から眺めれば、許しうるものになる。その終末の側から眺める目をわがものにし、しかもその終末を与える決断がわが手にかかっていると感じること、それこそ私の自由の根拠であった。

 

 文章がすごすぎる。以上!って感じである。ものすごい密度の装飾。「美文」という呼び方がふさわしいのかはわからないけれどとにかく圧倒される。物語よりも修辞に夢中になって三島作品ばかりを読んでいた時期もあった(今やったら絶対胸焼けする)。

 彼の思想や振る舞いについてちゃんと知ったのは大学生になってからだった。それ含めておもしろい(ムキムキ)。

 

金閣寺 (1956年)

金閣寺 (1956年)

 

 

古井由吉『杳子』

ああ、美しい。今があたしの頂点みたい。

 精神を病んだ女子大生杳子と青年の共依存チックな話。

 もやんもやんとした展開で何かドラマチックなことが起こるわけでもないのだけど、作品全体の雰囲気がとてもきれい。

 愛でましょう。

 

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

 

 

 

 

 ガーッと書いてみたよ。楽しかった。(「けど」とか「けれど」多すぎません?)

 もうちょい読みやすいデザインにしたい。

 次はノベルゲにしようかな。

 年末に作った謎リストを貼るだけ貼っておくよ。